FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

なくなった東大宮一番街。

20090226.jpg

宇都宮線東大宮駅上りホームの最後尾あたりに立つと、正面に東大宮一番街が見えた。

たしか埼玉県住宅供給公社のアパートが、道路をはさんで2棟建っていたのだが、東大宮開拓時代や郊外団地開拓時代を思わせる、古いたたずまいだった。

1階は店舗が入り3階から上は5階まで居住用だった。

一番街の看板の文字が、太く力強く、80年代以後の軽薄短小化時代からは衰退の傾向にあった、ようするに「昭和の文字」の感じだった。だけど、これはこれでよい完成度だったように思えた。

上の写真は、2009年2月の撮影。このころは、立ち退きの話はあったが、まだ普通に営業していたのではなかったかな。

つぎの写真は、同じ年の6月だが、すでに右側の1棟は取り壊され駐車場になり、一番街の広告看板だけが残っていた。看板を見ると、一番街は、このアパートの店舗だけではなく、SEIYUがあるところまでだったようだ。

右側の一棟が解体されても、左側のもう一棟は、そのまま残っていて、営業を続けている店も多かった。

看板右上にある「じゅん」は、右側の棟の端にあったが、早々に現在の東口ロータリーのところへ移転した。「じゅん」も単純な店名だが、「きらく」や「ひまつぶし」「わいわい」など、そのままズバリの気取っていない店名が並ぶ。東大宮は、そういう街のような気がする。

20090611.jpg

最後まで残っていたのは、左側の棟の1階にあった、中華の「大島飯店」だったと記憶する。居住者も店舗も、みないなくなっても、tたった一軒で暖簾を出している様子が、駅のホームから見えた。

その残っていた1棟の解体が始まったのは、いつだったか。下の写真は、きょねんの11月20日の撮影だが、解体工事中で建物の姿はなくなっている。このあと更地になって、そこにあった生活の痕跡は、きれいに消えた。そのうち、その記憶も、なくなるだろう。

上の写真の看板も取り払われ、すっかり見通しがよくなった先に、建て替え工事をしていた「SEIYU」の完成した姿が見える。リニューアルした「SEIYU」は、この20日すぎに営業を始めた。

20181120.jpg
スポンサーサイト

ランド・アートで突然復活。

当ブログの放置状態は2年以上続いた。

写真は去る11月3日の撮影だが、この日を前後して、こんな風景が何日間か見られた。

場所は、東大宮駅北側の踏切がある通り、西口のスーパーマルエツの入口がある通りだ。

一直線に東西に続く通りに沿って、送電線の鉄塔が立ち並ぶ。鉄塔マニアでなくても、これに沿って歩いてみたくなる。いや、実際に歩いたことがあるのだが。

ランド・アート、あるいは梱包アートと呼んでもよさそうな風景。どうやら鉄塔のメンテナンスのためだったらしい。いったいどんなメンテナンスをしたのか知らないが、いろいろイメージが膨らむ、楽しい風景だった。

009-001_201511251230087b8.jpg

010_20151125123337147.jpg

011-002.jpg

011-003.jpg

015_201511251223120ca.jpg








カラスの勝手の風景。

DSCN2325.jpg

DSCN2325-001.jpg

DSCN2326.jpg

先日、砂の万灯祭りへ行く途中で撮影した。

セイムス東大宮西口店の前の畑は、けっこう広い。うーん、300坪はないか、いや、ありそう。もしかすると、400坪ぐらい?土地とは縁がないから見当がつかない。

4年前に引っ越してきたころは、全面的に耕され作付けされていた。そのあと、わずかな一角がセイムスの駐車場になり、しだいに作付けの面積は小さくなった。いまでは、作付け面積は1割にも満たない。ほかは、耕されてはいるし、草は生えていないが、作付けはされてない。

このあいだから、ときどき、この畑に、一羽のカラスを見る。カラスも人間と同じように、一羽一羽、顔も姿もちがうらしいが、おれには見分けがつかない。なので、やつが、同じ一羽かどうかは、知らない。

ウチの周辺は、カラスのテリトリー争いが、けっこう激しい。住宅が増えているからだろうか。それに、何か時期あるいは季節が関係しているようだ。詳しく調べたり観察したりする気もないので、知らない。

とにかく、同じやつかどうかは知らないが、やつは、この広い畑で、一羽で、一見のんびりしているように見える。もしかしたらテリトリー争いの仲間にも入れず、孤独の悲哀を噛みしめているのか。畑の孤独は、都会の孤独でもあるようだ。しかし、カラスに、そんなセンチメンタルがあるようには、思えない。

広い空を飛べても、けっきょく、地上に、休める巣とエサを求めなくてはならない。やつは、おれと同じ、この土地の住人なのだ。

この空を飛べたなら、と、鳥になりたいと願うひとのうち、カラスになりたいと思うひとは、どれぐらいいるのだろう。少ないのではないか。

カラスは、都会人のような鳥だと思う。都会や街が似合っている。「銀座のカラス」「渋谷のカラス」そういう風に黒く輝く存在だ。東大宮は、カラスが存在感を示す街になってきつつあるのだろう。やつは、その尖兵なのかも知れない。

街と空と雲と

020_20130704214424.jpg

いまや、手付かずの自然なんてものは、めったになくて、たいがい人の手が入っている。ところが、空だけは、人の手が届かない。しかし、空気を汚したり、高い建物を建て空を狭くしたりという、干渉はできる。

東大宮は、高い大きな建物がなくて、空が広い。第二産業道路があっても、空気は比較的きれいなほうだろう。夜には、灯かりの影響があっても、2等星ぐらいまでは、なんなく見える。目が慣れれば、もっと見えるはずだ。

空は、どこも同じということはない。空に町の境界はないが、地域的な特徴は、当然ある。それは、地形によって、気象もちがうのだから、雲のでかたがちがって、当然なのだ。

ここに引っ越して4年だが、このあたりは、といっても、東大宮駅周辺なのか、その西側なのか、駅のある高台なのか、見沼田んぼ周辺の低地なのか、明確には判断できないのだが、雷雨のコースからはずれているようだ。雷雨の場合、数百メートルの距離でも、影響が異なることがある。

かなり接近して、さあくるぞと思っていても、そのまま巻き込まれることは少なく、避けるように通りすぎてゆくことが多い。地形も関係するのだろう。とうぜん雲のでかたもちがうはずだが、よく観測したことはない。

とにかく、空と雲は、街の風土や風景の一部であり、それなりに街に特徴をそえていると思う。それを、ただボンヤリ眺めているのが好きだ。

写真は、2010年8月上旬の撮影。JR東大宮操車場の北端の跨線橋、東大宮側は、見沼代用水西縁と、その暗渠の上に親水公園があって、跨線橋を渡ると北区になり、県立大宮工業高校がある。この跨線橋は、クルマは通れないから、のんびりできる。

018.jpg

004_20130704214504.jpg

009_20130704214524.jpg

世界文化遺産登録の富士山。

13-0128.jpg

富士山が世界文化遺産ということになった。自然遺産になれなかったのは、ひとえに、地元の富士山への愛情が欠けていて、無残な姿になっていたからだろうか。そして、その文化遺産的価値は、地元以外のところにこそあったのではないか。地元にあっては、富士山は経済であり産業であった。とまではいわないが、富士山の文化的価値を価値たらしめてきたのは、地元以外の人たちの思いを抜きには語れないことを忘れているかのような、地元の欲の皮が突っ張ったバカ騒ぎを見ていると、こんなことを言ってみたくなるわけだ。

文化的な価値となれば、地元以外のところから見る、その遠景こそが、人々のこころに何かを残してきたといえる。江戸はもとより、関東各所の「生活景」として、文化的価値が高く、銭湯の絵や「富士見」という地名をあちこちに残してきた。だから、富士山が世界文化遺産になったということは、富士山の見える暮らしが、文化遺産になったということであり、かりに富士山が自然遺産になれないほど無残な姿になっていても、その遠景は変わらず、それぞれの生活の中に生き続けてきた。

東大宮から見える富士山の生活景も、その一つなのだ。ということを、文化遺産による経済効果ばかりを計算している人たちには、考えがおよばないのだろうなあ。

おれは、一銭も儲からなくても、東大宮からときたま見られる富士山は、この生活景は、まさに文化遺産だと思っている。世界文化遺産に登録されようがされまいが。

1962年に上京してから、生活景としての富士山が見られるところに暮らすのは初めてだと気がついた。おれが上京したころには、すでに都心の大部分の場所からは、その景色はなくなっていた。おれにとっては、ときたま高いビルや郊外を走る電車のなかから見える富士山は幻のように瞬間的なものであり、富士山は「観光景」「行楽景」のなかに存在した。

だけど、そういった東京のコンニチの表層をペッとはがせば、その下には富士山を日常的な生活景として見る、東京だか江戸だか武蔵だかという場所があった。

東京都区内についていえば、ごく最近まで唯一富士山が見える地形として残っていた、西日暮里の富士見坂からの富士山の眺めも、あいだに建つ高層マンションによってさえぎられることになった。これこそ、なんでも経済効果でしか考えられない脳みそによる、文化遺産の破壊だろう。それとおなじ脳みそが、世界文化遺産登録を、文化的な価値ではなく、経済効果でだけ考えるのだ、って、繰り返しシクコク言ってみたりして。

その脳みその裏を返すと、高尚な文芸や美術や音楽や、それらを印刷した本などにしか文化的価値を見ないということになる。かくて、富士山の生活景は失われてきた。

富士山を日常の生活の中の景色として共有していた人びとと、そうではないコンニチの人たちと、たぶん、ほかのものについても「共有」や「共に生きる生活」の感覚がちがうのではないだろうか、それはつまり文化のちがいだろう。と、ここで富士山を見ながら思う。たとえば、いま銭湯につかりながら富士山の絵を見るひとには、共に富士山を見て暮らす場所に生きているという感覚はないだろう。だけど、むかしのひとには、あったにちがいない。

そんなことを考えた、今回の、富士山の世界文化遺産登録騒動だった。


で、冒頭の写真は、東大宮2丁目35−2にあるセイムス東大宮西口店の裏の通りから撮影した。今年の1月28日。ごくたまに、冬以外でも見られることはある。撮影がヘタなので、こんなアンバイだが、肉眼では、もっと鮮明に見えた。

下の写真は、やはり、同じ通りから、09年1月16日の撮影。
さらにその下は、JR東大宮操車場の北端の跨線橋の上から12年1月2日の撮影、おまけに同じ位置から見た操車場の夜景。

ほかにも、富士山が見える場所はあるし、もっとよく見える場所もあるのだが、たまたまデジカメを持っていて撮影できたのは、これだけ。

09-0116 (7)

09-0116.jpg

12-0102-02.jpg

12-0102-03.jpg
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。